落合陽一の中にアーティストはいるのか




落合陽一 / Yoichi Ochiaiは, 「落合陽一 (+ -)」であるし, Yoichi Ochiaiであるし, ‘Ochi + AI’である.

2015年の春, 彼の脳内にのみ在る’現実’が言語化され始め, 今在る現実の根幹を揺さぶりだした.

“全てがComputationalizedされた融合世界で”

‘Digital Nature’はもはや顕在化した未来である.

世俗という時代性を持つ存在と接する中で, 彼は肩書きから乖離していった.

それでもその昔, 彼は‘Artist’という看板を携えていたと伝え聞く.

残念なことに僕を含む多くの人間は, 彼が時代や世俗との接点を増やし始めてからようやく彼を視認することができるようになった.
だから’Artist’としての彼を知らない.

今彼が提示してくれる’Art’だけが唯一その片鱗を僕らに見せてくれる.
しかし, そこにはもう「表現」というものが存在していないのだ.

多くの者は問う.
「落合陽一は何者なのか」
と.

彼は答える.
「落合陽一は落合陽一なのだ」
と.

今日は, 多くの人間を魅了し困惑させる落合陽一という存在を, 久しぶりに’Artist’というフィルターを通して観察してみる.

彼がこれからどうしていくか, どうなるのかはわからない.

それでも, 今導き出せる仮説を以って未来を照らしてみたいと思う.

違和感

僕はその日, 3人のおじさんたちと酒を飲んでいた.

1人は, 高校や短大でピアノを教えている教師である.
彼は学芸大を経て, 母校である高校に戻ってきたそうだ.
しかし, 学芸大に行ってなければ乞食になっていたかもしれないという.
彼は云う, 「運が良かったのだ」と.

1人は, これも高校で絵画を教えている教師である.
彼は東京藝大の彫刻科を出て, 紆余曲折を経て高校教師を今やっているそうだ.
謙虚すぎる性格を先輩教師に指摘されていた.
彼は云う, 「謙虚すぎるとよく言われます」と.

1人は, 高校でギターを教える変わり者の教師である.
彼は高校卒業後, バイト先での偶然の出会いから音楽の世界に誘われたそうだ.
しかし, 生徒の前に立つ時, 昔の話はせず, 肩書きのない1人の人間として対峙していたいらしい.
彼は云う, 「生きるために音楽で食っていくしかなかった」と.

そう. つまり僕はその日, 母校の教師3人と酒を飲んでいたのだ.

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「落合さんってどうなの?」
僕が落合研に所属しているという話になった折、彫刻をやってきた先生が僕に質問をしてきた.

「どう, というのはどういうことですか?」
「えっと, つまり… アーティストとしてどういうことを考えているのかなと思って. 作品とかも少ししか知らないんだ. シャボン液に蝶を写すやつだったりとか, 銀の球体が回るやつだったりとか」


「そうですね… 僕の解釈で話しますけど, これは『魔法の世紀』にも書かれている話ですが, 基本的に落合さんは既存の現代アートが活用する『文脈ゲーム』をやめて『原理ゲーム』でやろうという話をしています. 絵画でもなんでもいいですが, 人間の感覚的に感動するアートというものは存在しますよね. その感動こそがやっぱり本来はアートをアート足らしめるものであり, 文脈を一義的に考えることへのカウンターを行っているわけです」

「なるほどね. そうだよね, うん. でも僕が気になるのは, その先に落合さんの個人としての, アーティストとしての表現があるのかっていうところなんだ」

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「アートはアーティストから見た世界そのものだ」

という話をメディアアーティストの藤幡正樹さんは話していた. その場には落合さんもいたし, 僕には落合さんがその意見に肯定的なように見えた.

ただ, この言葉では一見すると『時代性』を重んじているもののように見えてしまうかもしれない. しかし, そうではないということを共有しておかねばならない.

「アーティストが見た世界を, 自分という個性, 自分というフィルターを通して歪ませて, それを表現したアウトプット」
というのがもう少し詳しい説明になるかもしれない.
つまり, 『時代性』と『偏愛』の共存, そしてそれらが洗練されていることが重要なのである.

『時代性』というのは常に付き纏う話だ.
今の時代のアートを『コンテンポラリーアート』と呼ぶ風潮もあるが, 中世ヨーロッパのアートも, その当時の人々にとっては『コンテンポラリーアート』であった. それゆえに, 全てのアートは『時代性』から完全に脱却することは叶わない.

では, 何がその上で重要になるか, といえば, 時代を超えて人々の心に訴えかける「何か」がそこに宿っているかどうかという点に他ならない.

そしてそれは往々にして, 「アーティスト」という存在そのものである.

「ピカソの絵を見たら, その書いてる感じが自分の身体に憑依するんだよ. ミラーニューロンみたいにさ」

藤幡さんの言葉がここでも蘇ってきたものだった.

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さて, ここで議題に上がっている話は, 落合さんがアーティストとしての表現を含めているかどうかという話なのである.

「『原理ゲーム』に落とし込んでアートをやろう」
というのは確かに一つの意見表明とも言える. しかし, それは一方で『時代性』に対する単なるカウンターでしかない, と言える側面も持ち合わせているのだ.

しかし, それでも問題はない. あらゆるアートは『時代性』を内包してしまうものなのだ. では何が問題か.
先に藤幡さんの話を参照した時に, 2点が重要であると話した. 『時代性』, そして『偏愛』だ.

「落合陽一のアート作品の中に, 『偏愛』は存在するのか」
と彫刻の高校教師は疑問を持っていたのだ.
そして, それはつまり, 『偏愛』がなければアーティスト足り得ないのではないか, とも.

過去

「落合さんの学生の頃の作品って, 今よりもっとアートっぽいよね」
と言っていたのは, 落合研に来ている武蔵美の4年生だった.

確かに, 過去のアート作品を見てみると, その『偏愛』が垣間見える気がする.
落合陽一[wikipedia]
落合陽一の作品 (2010年)

おそらくThe Colloidal Displayが実は最も技術と表現のバランスが取れていた作品だったのではないだろうか.
そして, これ以降の主だった作品からは『偏愛』が抜け落ちていき, 『原理ゲーム』を利用した『文脈ゲーム』へのカウンター部分のみが表出した作品になっていっているような気がする.

しかしながら, 重要な事実は, 過去(特に学生時代)において, 落合陽一は『表現(偏愛)』のところまで作品に込めていた, という点である.

それが過去にはできたのに, 今はもうやっていないのだ.

今, そしてこれから

「アーティストとして長い目で見たら, 『時代性』に特化してしまうのは結局マイナスなんじゃないだろうか」

彫刻の先生はどうしても違和感をぬぐいきれないようだ.

「でも, 彼もそんなに馬鹿じゃない. それをわかった上で, 今はそうしているんだろう」
そう補足したのは, 僕にとっての恩師でもあるギターの先生だった.

確かにそうなのだ.

過去の作品を見れば, 『偏愛』を込めてアーティスト足るように動くこともできるはずなのだ.
しかし, そうはしていない.

なぜそうしないのだろうか.

それはわからない.
ただ, 近くにいて何となく感じるのは, そこに戦略的なものがあるわけではないということ.
そして, ビジョンを立てた時から, そっちの方が優先度高くなったんじゃないか, ということだ.

アーティストには色々なタイプがいると思う.

「鴨長明」を藤幡さんはアーティストの例として頻繁に出していたが, 鴨長明のように私的な感情を表現として乗せることが得意なアーティストもいれば, 作品等を通して社会を挑発し変容させていくことが得意なアーティストもいるだろう.

落合さんの知識部分のバックグラウンドの広さは多くの人が知るところであるが, それは知的好奇心もまた幅が広いということを意味する.
その手の人物であれば, 私的な『偏愛』を表現として顕在化させることだけに活動を抑えきれないのは自明の理ではなかろうか.

‘Digital Nature’
それは一人の男の中で導かれた新たな自然の摂理である.

その世界観を今, 彼は熱心に社会に実装している最中なのだ.

この活動の影響は, 1アーティストが作品を通して及ぼす影響の範囲とどちらが大きいだろうか.

落合さんはおそらく, 今の活動の方が作品制作より断然影響のあるものだと思っているから, 作品制作への注力度合いを下げているはずである.

だから, こうして世俗の中で, 社会の中で生きているのだ.

……

しかしながら, 将来の話はわからない.
CREST
先日選考に通ったCRESTは5年半の研究期間が指定されている.
ゆえに, あと数年は少なくとも研究をメインにやっていくことは目に見えている.

だが, そのあとのことは誰も知らない.
本人もきっと知らないことだ.

だから, もしかしたら何年か経った時, 彼は再びアートの世界に全力を注ぐようになるかもしれない.

少なくとも年齢がもっと進んだ時, 落合陽一はきっとアーティストになる.
僕はそう思っている.
アートというものだけが, 彼の年齢の積み重ねを肯定してくれる唯一の拠り所になる気がするから.

そんなことを言ってみても, 誰も将来のことはわからない.

彼はただ生きていく.
その瞬間, その瞬間を.

あとがき

今回の話は, ほんのさわりに過ぎない.
ちょっとした夏の宿題に, 少しだけ手をつけてみたようなものだ.

本当はもっと書きたいことが, 書くべきことが山のようにある.
でも, それを書き, 語るのはもう少し後にしたい.




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