[生存報告] 押井守に見入っている




さて、お久しぶりになってしまいました。
1ヶ月の空きができてしまいましたが、その間の前半は9割ほど研究がメインになっていました。
希望が少し見えた段になって授業の片付けをし、そしてここ1週間ほどはどこか少し気が入らない状態で、情報ドランカーのごとく何かをバカみたいに摂取しています。

その「何か」というのは、まぁ言うまでもないですが『押井守』という監督その人のことです。

ただ、そのきっかけといえば実は「秋元康」と「鈴木敏夫」という二人の大プロデューサーだったのです。

研究室には乃木坂ファンの人が割といて、それもあって実はちょこちょこ情報に触れるのですが、これを見てちょっとビビりました。

どこかでホリエモンが「秋元さんは執念の人だから」みたいなことを言ってた気がするんですけど、ちょっとそれが垣間見えた気がしたんです。

「小娘を泣かすほど追い込む鬼」という話ではありません。
「絶対的にエンタメとして、お客を感動させるその一点だけを目指す」というところへの執念です。

そんな中、実は最近はもう見なくてもいいかなぁと思っていた「鈴木敏夫」という人物との対談があったんですね。

これもまた面白い。久しぶりに(NHKのプロフェッショナルという番組ぶりに)『鈴木敏夫』を見たけど、やっぱり面白い。

そして関連動画に、「押井守×鈴木敏夫」の字が。

『押井守』という人を知ったのは、「オトナの!」という番組で、本広監督と一緒に出ていたのを見た時です。

オトナの!アニメと実写

この時の印象は、ボソボソと珍妙な声で興味深い話をするおじさん、くらいなものでした。
むしろ、本広監督という人が「踊る大走査線」の監督で、しかももともと「アニメ」をやりたかった人で、その人が尊敬しているのが押井さん、ということへの印象の方が強かったのです。

その時から随分時は経ったのですが、ここで初めて、いや久しぶりに「押井節」を味わうわけですね。

特に興味をそそられたのは「アバター敗北宣言」にまつわる『押井守』と「鈴木敏夫」のトークでした。

これを聞いて「もっと色々聞きたい・知りたい」と思わない人間はいないでしょう。

僕自身もご多分に漏れず、『押井守』ドランカーになります。

と言っても、世代が世代なせいもあってか実は「攻殻機動隊 S.A.C」の第1期を押井監督の作品と勘違いしているど阿呆でもありまして。

とにかく頭の中に「攻殻機動隊=押井守と神山健治」しかなく、両方とも神山監督のものとも知らずに何回か見ていたわけですね。

でもクレジットを毎回見ても『押井守』の字がないことにはバカでも気がつきます。

wikipediaを見てみると、どうやら一番最初の劇場版を押井監督が手がけたということがわかります。

しかしながら、これをすぐに見る気にはなれなかったのです。

それにはいくつかの要因がありますが、そもそも僕がなぜ「神山健治」を知る機会にあったかといえば、落合さんの存在がそこにあります。

不変への憧れが日本を停滞させている – 神山健治×落合陽一 映画『ひるね姫』と未来予測

ここで落合さんがすごい興奮して対談していたらしく、その時に「あっ、攻殻機動隊の人か」と思うと同時に「東のエデンの監督か!」とも衝撃を受けました。
「東のエデン」は何周も見るくらいには好きだった作品だったので。

と話は脇道に逸れてしまいましたが、ようやく「押井守の攻殻機動隊」と「神山健治の攻殻機動隊」の分類ができるようになったところで、初めてまともに『押井守ワールド』に触れることになります。

それが、『イノセンス』でした。

イノセンス(wikipedia)

なぜ『攻殻機動隊』ではないのか、には明確な答えはありませんが、インタビューを聞き荒らしている中で、なんとなく『イノセンス』にたどり着いた気がします。

そしてこの『イノセンス』が僕にとって『押井守』作品の中で一番好きなものとなりました。

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『押井守』を1つの作品を見ただけで語ることなどできません。

インタビューを山のように聞くだけでも多分ダメなのでしょう。

作品をすべからく見ることが必須な気がしました。

それでも、時間には限りというものがあるので、
『イノセンス』『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』『パトレイバー2』『スカイ・クロラ』
という順で中毒になったかのごとく一気見をしてきたわけです。

それでも僕の中の一番は、『イノセンス』でした。

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「なぜイノセンスなのか」

ちゃんと『イノセンス』自体を分析しきる前に語るべきことでもないかもしれませんが、それでも一つだけ確かに言えることがあります。

それは「少佐」が人間の形をしていなかったからです。

僕らの世代ともなればSFに飽きつつあると思っています。
それは何も単にSF作品が飽和したせいである、とは考えていません。

実は単純明快な話、「人間が人間でなくなった人間社会」でなければ現実的に50年、100年先を射程に入れられるような作品に思えなくなっているからです。

昨今のSFは、ちょっとだけ未来の、もうあり得るであろう社会の詳細な描画か、もっと未来の変わり果てた世界の描画か、くらいしかないわけですが、

そのもっと変わり果てた未来の中で、ほとんど全ての作品において、人間が人間のままなのです。

それはおかしいのです。

技術が進めば、人間は本質のためにある種洗練されていくのではないでしょうか。

もっといえば、肉体に対して希薄になるというか、情報でしかない人間というものをもっと本格的に考えるべきはずなのです。

「少佐」はそういう意味で、僕にとってある意味正解の姿をしてくれていました。
十分に示唆的な状態だったのです。

『イノセンス』までの「少佐」を一応「人間側の存在」として見ていた僕にとって、人間の形から離れ、情報として生き、価値観も変わっていた「少佐」は、未来に対する真に議論に値するSF的姿だったのです。

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実のところ、僕は最近「身体論」的話を時代に押し込めていました。

僕の恩師と呼べる先生はその昔、ミッシェル・フーコーと会ったそうです。
それは先生が単体で呼ばれたのではなく、パートナーとして一緒に活動していた「田中泯」あってのこと。それすなわち、暗黒舞踊とそこにまつわる身体論的情報がたぐり寄せた幸運と言っていいでしょう。

そして、今年の夏にあった藤幡正樹さんのアート論もまた、身体的な話でした。

だから、なのかはわかりませんが、自然と「身体論はその年代の人の話」という風に心のどこかで追いやってしまっていたのです。

その身体論を、一気に今へ持ってきてくれたのが『イノセンス』でした。

「人間とは何か」

それを考える上で、やはり身体を忘れるべきではなかった気が、今となってはしています。

いつもは「デジタルネイチャー的、自然との融合」の視点から「有機的存在への流れ」ばかり見ているものの、やはり「有機と無機のはざま」も同時に見る=忘れてはいけないのかもしれないのです。

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とりとめもなく、読みづらい文章を長々と書き上げてしまいましたが、これは誰に読ませるためのものでもなく、単なる私信的なものです。

なので、「読みづらい」の評は全て右から左に流します。

もう少し行くとこまで行って、飽きるところまで絞り尽くして、研究への熱を再燃させようという気概であります、という報告を持って終いとしようと思います。

p.s.
「演出ノート」は、レイアウトとか絵的な画角的な話の辞書的教科書=『押井守』の「表現」の部分を知る拠り所として、
「創作ノート」は『押井守』の「思考」の部分をもっと知る教科書として、
購入した次第であります。




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