音楽とは何か,表現とは何か 〜恩師の逸文〜




アートとか表現とか.
どうやって稼いで生きていくかとか,研究とはとか.
大学の長期休暇になると,生活時間のオフセットでよく考え事をするようになる.

仲良くしてるサイエンス寄りの人物に最近よく「アート/表現ってなんなの」と聞かれた.
僕自身にだってわからない話ではあるが,今までの思考の中で持ち合わせている言葉を使って一応の返答はしている.

ただ,僕が解釈/消化した表現より,僕のInputを見せた方がもっとよく伝わるかもしれない.

僕にとって恩師と呼べる人が一人だけいる.(落合さんのことではない)

大学に入ってから人生に悩んだ時に話し相手になってくれてきた方である.
その先生のとある講義での前書き的な文章が僕は大好きだ.
というか,音楽をやってきた先生なのに言葉が本当に巧みなのだ.

その教材を僕は時々よく見返す.
今日はそれの写しをしておきたい.

※以下がその内容である
※ちなみにこの講義は一昨年で最後となってしまったはずだ

最初に/耳から心の森へ

「音楽」とは何か.「鳥のさえずり,小川のせせらぎにも音楽がある」とか,「心の中に歌がある」とか,「聴覚を領域とする芸術である」などと,音楽について色々と語られる.時には「音楽以前〜」と言う音楽批評もある.「音楽」とは何か,その世界にはどのような広がりと深さがあるのか,まずは「音楽表現とその領域」について,少し考えてみよう.

人間の「表現」とは何か.人は,声や言葉を発し,身振り手振り,顔の表情に表わし,時に涙を流し,相手に触れ,手を握り,抱き締め,伝えようとする.その包括的な行為を「表現」と言う.
そこで「音楽」と言う表現も,聴覚という「知覚」レベルにとどまらず,時間とともに生きて流れる「非言語的な」情報を共有し,認識や思考へと進める,包括的な「認知」の領域と考えよう.
つまり「表現」とは,大量のメッセージとともに人が時間軸を「生きて」行く事の表象と考え,そこから,音楽表現の色々な事例の広がりと奥行きを知り,丁寧に読み解き,つなぎ合わせ,「音楽とは何か,表現とは何か」を探りながら,この講義を進めて行く事とする.

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では,「音楽とは何か」を知る最善の方法とは何だろう.例えば「昆虫」を知るには多くの昆虫を「自分の目で」観察する事から始まるように,音楽を知るにはまず,音楽を「耳で」聴き,直接に理解する事から始まる.このテキストも含め,言語による解説や評論,分析の多くは修辞であり,言葉で音楽の全ては語れない.言語による知的理解を超えて,自分の耳で聴き,その音楽の全体像と本質を「非言語的」につかみ,理解する事をお勧めする.

本講義では,多くの地域と色々な歴史に育まれた,様々な「音楽表現」に出会う事となる.それは自分一人の小さな経験と環境を超え,多くの人の人生に出会う事と言える.
まず,我々の先人や仲間達が,音楽という領域で何を想像し,表現してきたのか,耳に聴こえる音響情報を直接に感じ取り,丁寧に読み解き,「その人の人生」に出会う事となる.
更に,受診している自分が今そこから,何を感じ,何を受け取り,読み解いているのか,その自分自身の「心の森」に踏み入り,自分の心に触れて,「自分」と出会う事となる.
本講義の目指すところは,音楽知識の収集ではない.多くの音楽,多くの人生を知り,感じ,考え,それを糧として自分を知り,豊かで確かな表現と共に「自分を生きる」事にある.

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音楽表現の分野では,音楽家は,まず第一に「技術」の習得の訓練を課せられる.しかし,「技術あって表現なし」と言う言葉があるように,「表現」の内的な必然性や創造性は,「技術」とは別の次元にある.誰であろうと人には必ず,「表現」の必然性,啓示の訪れがあり,真に必要な「技術」は必ず「その人間の必要に応じ」,後からついてくる.

例えて言うならば,「愛の表現」の技術は人それぞれの必要に応じ,必ず自分で見つけることに似ている.「マニュアル通り」の愛の言葉に,人の心は動かない.誰もが「自分らしい」愛の形を探し出そうと試み,そこに「自分」と言う意味を見つけ,そこに「表現」がある.
つまり表現とは,[私]という有機体が自分を[確認]しながら[時間軸を生きて行く]現象とも言える.その[確認]には「勘違い」も「カラ回り」も「暴走」もあるが,人間が[社会的動物]として生きて行く時に持つ根源的な属性として[表現]があり,それゆえに人は他人の表現を「意味あるもの」として共有する.

では,およそ全ての人が持つ表現の[普遍性]と,多くの人に感銘を与える素晴らしい表現の[特異性],この相反する二つを結ぶものは何だろう.
素晴らしいと感じる表現とは,人がそれぞれの「自分自身の表現」に代替して余りある「飛躍的な高機能モデル」であり,それが時間軸と空間構造の中に姿を現す時,人はそこに,拡張された自分自身の表象を具現的に疑似体験し,感動する.
もちろん,人には個人差があるので,自分自身の延長上にないモデルには興味も示さず感動もしない.だが,素晴らしい表現には必ず[特異な]創造的飛躍があるのに,多くの人が感銘を受けるのは,その飛躍を解読する[普遍的な]コードが共有されている証でもある.

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しかし,普遍的と言っても,「音楽表現の領域は,広く柔軟に〜」とゆるい提案をするワケではない.むしろ,「音楽表現とは何か」をきちんと考えれば,時には辛口にもなる.

例えば,「手作り楽器」や「音の出るオブジェ」.音楽の領域と言えそうだが,「音を出す行為」や「鳴るオモチャ」,「音遊び」の面白さに終始し,音楽としての内容は乏しい.
「音遊び」は,20世紀ニューヨーク発の「ミニマル・ミュージック」で,コミュニケーション論を背景に逆説的に「芸術」と位置付けた経緯がある.そして,ニューヨークやサンフランシスコから出現した音楽,美術,ダンスの新しい流れは,芸術表現の「特別な技術」や「非日常性」に代えて「共有と参加」や「日常」を主題とした.そして,「ミニマル」は,カナダのマーリー・シェーファーの「サウンドスケープ」や「音環境論」に受け継がれ,同じトロント出身マクルーハンのメディア論に音楽教育メソッドを重ねた「音探しごっこ」となって,昨今のアートフェスにも登場している.
確かに,音遊びの楽しさには「身近にアート,誰でも参加」の社会的かつ教育的な効果があり,現場での「分かり易い,伝わり易い,面白い」を軸に,音楽はコミュニケーション・メディアとなる.
だが,メディア論や教育論,或いはアート・マネジメントなど,社会学との学際領域は,芸術表現の発生以来の切り離せない側面とは言え,音楽表現の核心から見れば,周辺事象と言える.

もう一例,流行の「和太鼓」.イキな衣装でカッコよく,気分は高揚,一体感と達成感も味わえ,精神論も語れる.汗をかいてカラダに良さそうだし,伝統楽器という文化的後ろ盾もあり,地域振興もあり,文句のつけようもない.だが,どの曲も威勢が良く,派手なパフォーマンスの割に,音楽としては単純で表現に奥行きがない.和太鼓に限らず,音楽クラブの活動にもよくあるが,「音楽」をやるはずが,いつの間にか精神修行と充実の感動ドラマにすり替わる.
ただ,全ての和太鼓がそうだとは言わない.1980年頃に見た佐渡の伝統の「鬼太鼓」は,その地味さ,渋さに驚いたが,静かにヒタヒタと押し寄せてくる表現は,寡黙ながらも感動的で,当時の有名な太鼓グループ「オンデコ座」とは,全くの別物だった記憶がある.

又,コラボと称する「異分野の競演」も,疑わしい.情報としては「ちょっと話題の新メニュー」で一期一会の話題性を売りとするが,お互い安全・安心の仲良しお友達との「出会い」や「自己満足」が多く,音楽的な内容は希薄,「お疲れさん,楽しかったです〜」で丸く終わる…
リスクを恐れずに異次元の深い感動へと踏み込む[創造的な]コラボは,数少ない.
…いやぁ,そこまで考えていません,余りカタイ事言わずに,軽い「出会い」でもハッピーで楽しければいいんじゃない〜,と言う人には,それ以上申し上げる言葉もない.

そして,更なる[悲劇/喜劇]は,華麗な音楽を披露する演奏家にある.「ウデに覚え」のツワ者には「技巧の快感」と言う悦楽がある.だが,弁舌巧みな愛の言葉が恋人の心を打つとは限らないように,卓越した演奏技巧が必ずしも音楽的感動を生み出すとは限らない.
「技巧の達成感」を「表現の充実」と勘違いし,「音楽への感動」から逸脱して「技術への喝采」に転落していく演奏家たちの例は,昔も今も後を絶たない.

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これら数々の思い込みや誤解,短絡をあげるまでもなく,最も重要なことは「音楽とは何か,表現とは何か」と言う基本認識にある.そこに至るには多少の時間と努力も必要で,「簡単お手軽」とは言えないが,それは「宝探し」に課せられる当然の負荷だろう.その先には,音楽の楽しみ,表現の喜びを人生の糧として手にする,長い幸せがある.
今の時代,色々と厳しい状況に囲まれ,「簡単お手軽」が喜ばれ,「ゆるさ」に救われる人も多い.しかし,それも程度の問題で,自分に甘い人に厳しいことを言っても始まらない.
逆に「勝ち組幻想」を追う人はリスクを取って粗雑な勝負に出る.一か八かに振りすぎても真の豊かさからは遠のいていく.[バランス感覚]も又,豊かさに含まれている.音楽の様々な事例からは,表現のカタチの色々な[バランス]を知り,糧とすることができる.

芸術に関する考察には,美学や心理学,社会学など複数の視点があり,単純な評価では片付かない.音楽だけでなく,例えば美術も又,今の時代を生きている.名画は投機の対象となり,作品は商品としてメディアに流される.アーティストはポートフォリオを持ち歩いて営業し,美術館は地域活性の集会場とされ,企画会社はディレクターと組んでアート・フェスティバルと称するイベントを自治体に売り込む.だが,それを「時代の流れ」と乗るのも,「安易」と拒絶するのも,単純にすぎる.現場で何が起きているのか,どのような判断や価値観で人が動いているのか,その先それがどうなっていくのか,そこをきちんと見据えてこそ,的確な認識と判断にたどり着き,自分の人生に意味のある積み重ねを築いていくことができる.

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この講義の<期待値>は,「音楽表現とその領域」を解析し考察することにより,豊かな感受性と的確な認識,判断力を身にまとい,「表現」と言う[生きていくチカラ]を身につけ,生きる辛さを乗り越えて,音楽を手に,心豊かな人生を歩んでいくことにある.

本講義では,色々な音楽表現とその領域,環境について広く深く知り,体感することにより,「耳」から「心の森」に入り,ゆっくりと自分と言う「カラダ」の中に沈んで,いつの日か,深い地層からの「湧き水」として,溢れる表現のチカラになればいいだろうと考えている.




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