『秘密の知識』光学機器と絵画とメディアアート




『秘密の知識』を読んだ.きっかけは,昔買った“Beyond the Display”という本を久しぶりに眺めていて,その序文を読んでいたときだった.
その序文を引用しよう.

英国出身のアーティスト,デイヴィッド・ホックニーは,フェルメールより遥か以前に,西洋美術の巨匠たちがいかに光学機器の技術を絵画に用いたかを,描き手の立場から解き明かし,科学史と美術史の双方で議論を呼び起こした.ホックニーは探偵のごとく,ヤン・ファン・エイク,ハンス・ホルバイン,カラヴァッジョら巨匠たちの絵画作品を注意深く見ていき,筆の運びに迷いのない輪郭,複数の消失点,肖像画の中の絨毯のずれ等から,機械を利用した足跡を鋭く指摘している.精細な描写の成り立ちには,美術館で展示される際にまず解説されることのない秘技が隠されていた.ホックニーの2年にわたるリサーチは,コンピュータの登場以前から,テクノロジーが常に人間の創作活動に大きな影響を与えてきたことを物語る.

ただし,ホックニーも念を押すように,機械は補助的な役割を果たすに過ぎず,何を描くかを決め,機械によって映し出された映像を描きとめるのはあくまでも作者である人間である.機械は制作における重要な手立てだが,「人間がいかに機械を使って創作するか」という発想とそれを遂行する能力がないと作品は生まれてこない.

このホックニーが解き明かした内容を記してある本が今回の題材でもある『秘密の知識』という本である.
ただ,今回は別に『秘密の知識』の内容について諸々と言及したり,絵画について考えようという腹は全然ない.

ここで考えてみたいのは,その歴史とメディアアートのことである.
メディアアートの歴史を考える際に,多くの場合ビデオアートの話に始まり,ナム・ジュン・パイクが出てきて〜,という感じなわけだが,しかし,その話が行き着く先は,インタラクションとか双方向性だとか,『表現』という核から離れた文脈の話,芸術の再定義の話である.

以前の恩師の逸文の引用にも出てきた,ミニマルミュージックと音楽の捉え直し(再定義)は行き詰まりを起こした歴史の必然だったと言えるかもしれない.だが,この『秘密の知識』を読んで思うのは,技術(テクノロジー)との関係の中での歴史をもう一度考えてみることで新たな景色が見えてくるのではないだろうか,ということである.

文脈を考える際に,私たちは常々前後関係のことばかりを気にしてしまう.
絵画で言えば,○○派から○○派になったのは,こういう意図があったとか,こういう社会的変容/要求/構造があったとか.
しかし,ホックニーが述べるほどの技術との関わりに着目したものはあまり存在していない.技術(テクノロジー)は社会の様相を考察する上でかなり重要な要素の一つと言っていいはずであるにも関わらず,だ.

そう言えば,とふと懐かしい話を思い出す.
落合さんは筑波大学に着任したあと,よくエジソンの話とかカメラオブスクラの話を取り上げていた.それはもちろん,技術とかカメラ・光学的な意味での歴史の紹介でもあったわけだが,それは同時にメディアアートに対する捉え方の土台になっていた気がしてくるのだ.

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『秘密の知識』で一体どんな光学機器と絵画の関係が書かれているか,少しだけ触れる.

単純なもので言えば,レンズやミラーを使って壁/スクリーンなどに像を映し出し,それをなぞるようにして輪郭など大枠を書いてしまって,そこから肉付けする手法である.
これは今で言えば,プロジェクションで投影しながらやったりするようなものだ.

ここで面白いのは,貴族のような人物たちの肖像画を時系列に並べてある写真だった.

それをみると,例えば貴族が着ている服の模様が明らかに写真で撮ったのと同じような,写実的な描かれ方になったりしているのだ.
よっぽどの天才であれば,光学機器なしでもかけるかもしれないが,写真じゃんと思うほどの本物感を本当にみんなして書けただろうか,と考えれば光学機器が使われていたことがおかしな話でもないことがうかがえる.

そして,これはちょっとした余興な話だが,それだけリアルに書かれた服や装飾に対して,顔の皮膚の色付きがすごく抽象的になっている絵が多いことが気になった
これは現代のカメラのフィルターとおんなじような感覚なんじゃないかと僕は思う.
人間誰しも,自分の顔をよく見せたいと思っていたのではないだろうか.そう考えてみると,服など顔以外の部分をできるだけ写実的にして,顔はよりよく見せるために加工を施す.
案外,今のカメラappが当たり前のごとく用いられるのも,古くからの歴史なのかもしれない.

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そう言えば最近,facebookのタイムラインにbouncyのこんな投稿が流れてきた.

『秘密の知識』を読む前だったら,「こんなもの」と思ってさっと流してしまったと思うのだが,今見るとあながちこれを無視するべきではないと思うところがあるわけだ.

単純な話,絵画の表現手法のアップデートは無限に続いていくと思ってもいいかもしれないと感じたのだ.
昨年のアルスエレクトロニカに参加していた時は,Deep LearningのGANを用いた人の顔写真がアート作品として登場していたりもした.
あれは,絵画や写真でいう「被写体自体を作り出す」ことだと思う.
通常,何を描くか・何を撮るかの「何」というもの自体は現実に存在するものが多いわけだが(CGを除いて),それ自体から作っちゃうという話だ.
人を描くという行為の一部のアップデートと考えてみてもいいかもしれない.

もちろん,これは都合のいい解釈だと思う.
僕個人があの作品が好きかどうかで言えば,「無」である.
そこに作者の表現はあまりない.被写体や画角の選定はDeep Learningというブラックボックスの中に埋め込まれてしまっているし,多少のパラメータ設定などにフェチズムが反映されているかもしれないが,強烈なものでもない.

まぁどこまでを機械がやってどこまでを人間がやったということ自体ももはや意味のない議論とは思う.
ただ,そうは言ってもじゃあ重要なのは,結局鑑賞者側がそこに共感ポイントと飛躍的なジャンプという二律背反的なものをどれだけ感じれるかというところに過ぎない(恩師の文章より).
人間が,機械がは,フェイクニュースを代表するように,もはや伝搬のデザイン論に過ぎず,真偽を問うている時間もないだろう.

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まぁつらつらと述べてきたわけだが,結局の帰着点として自己肯定を込めて考えるならば,やはり研究領域の中にこの領域のボールがあると言っても過言ではない気がしてならない.
技術開発のスピードがインターネットによって指数関数的な成長を遂げているのであれば,その渦中にいる人間にしか,『秘密の知識』に出てくるようなテクノロジーに触れていることができないかもしれない.

○○という画家と〇〇という最先端のレンズ師は友達だったとかの話もあるように,研究の領域にはそういう存在になりうる余地があると思う.

そう言えば,と最後の締めくくりを考えている時にふと思った.

メディアアートを考える時に,もうひとつよく議論に上がるのは,社会との関係を考える「メディア」という特性に着目する話だ.
マクルーハンの「メディア論」を取り上げるのか何なのか,それは置いておくが,新聞にしてもテレビにしてもインターネットにしても,そのメディア性を鑑みて,社会というものを捉えて,それらとの対話を考えてきたのもメディアアートの一つの役割であった.

この部分がどうなっていくかというのも,一考してみると面白いかもしれない.
しかし,僕個人としては,情報過多で入りくんだ今の時代に置いて,社会との対話とか社会での位置付けを理論として打ち出して,一つのことを信じさせようとする方が愚かな気もしてならないから,考えなくてもいい旧石器の話な感じもするものである.




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