「見る」という根源的行為へのこだわりと,その始まり




数日前,とある大人な人と話をしている時に,こんなことを言われた.

「君はなんでマテリアルや空間なんだろうねぇ」

僕はその時,いつものように

「小学生の時に見た,スターウォーズとかで出てくるようなホログラムへの興味が始まりだと思います」

と答えた.

しかしながら,この答えは実は完全に的を射ていると思えていなかった.そんな状態が結構長く,かれこれ1年くらいは続いている気がする.

僕はなぜ,マテリアルや空間といったものにこだわるのだろうか.
どうして「見え方」とか「見る」という人間の根源的な行為に対する執着が強いのだろうか.
なにゆえ「触り心地」とか「聴き心地」とか「匂い」とかそういった方面に行かなかったのだろうか.

そのことを考えるために,今まで何度も自分の人生を振り返ってきた.
思い出せる光景はいくつかある.

・小学校の教室から見ていた空が澄んだ日の富士山
・小学校の校庭のジャングルジムのてっぺんに寝そべって見ていた空
・中学受験用の塾からの帰宅路で眺めていた夜空や星々
・野球の素振りを夜にしたりしながら,悩みがある時にずっと歩き眺めながら見ていた夜空や星々

見る景色の中でも,自分の中に色々なフェチズムがあることは気づいている.
しかし,どうにもそれだけでは足りていない.何かが決定的に欠落してしまっているのだ.

そしてもう一度振り返る.
もっと別の角度から「見る」を切り取った何かが記憶の断片に存在しないかと.

そして実は一つ,強烈な記憶があることを僕は知っていた.

この奇妙な絵は,小学5年生・小学6年生の時にそれぞれ描いたものである.授業の課題で,毎年全員応募させられるコンクールに出す用のものだと記憶している.
これを書いた時,僕は圧倒的に自分が正しいと思っていた.しかし,周りの大人=親や先生には全くもって怒られまくった.

「こんな風に書くんじゃない」
「本当にこんな風に見えているの?見えているありのままを描いて」
「目,大丈夫?異常あるんじゃないの?」

この絵の奇妙さがどこに起因するかは多くの方がわかっていることだろう.この絵は全くもって「遠近法」を度外視している.
消失点が存在しない絵になってしまっている.
もちろん,小学生で,絵も習ったことがないような人間でセンスもなければ,消失点がきちんと描かれている必要はない.しかし,明らかにこの形はおかしいのだ.

しかしながら,当時の僕にとっては全くおかしくなかった.これこそが正しかったのだ.
その理由は思い返せばきちんと存在している.中学受験の勉強が影響していた.

中学受験の算数の参考書を見ていただければわかることだろう.そこに書かれている図形はいつだって,数理的に理想となる形が表現されていた.
各辺は必ず平行になっていて,遠近法など存在しない.

僕は小学4年生の夏から塾に通い始めた.これらの絵を描いたのは小学5年生の夏と小学6年生の夏.もう既に十分に受験勉強の作法が頭に入っていたわけだ.

中学受験では,どう見えるかを描くことは一切しない.むしろ理想的な数理的形状を頭の中と図とで一致させながら想像力を働かせなければ解くことも難しかったりする.

そんな僕にとって,「家を描く」という行為すらも「その家の数理的形状を表記する」ことと同義になっていたのである.

こんなことを当時の周りの人は誰も分析してくれなかった.ただただ,遠近法が描けない絵のセンスのないガキだと揶揄した.
この時僕は絵を描くということに対して一切の自信を失ったし,興味を失った.自分の脳内にある絵を手で描写する行為を閉ざしてしまったのだ.

だが,それでも小学6年生の絵の構図は今の僕に通ずるフェチズムが内包されている.空と注視するオブジェクトとその背後にあるボケ.それをどうにか切り取ろうとしたのである.

何か景色をぼーっと見ながら考え事をすることが大好きだった.
その見る景色に対する好き嫌いも自分の内側ではかなりはっきりしていたと思う.
そんなこだわりを持ちながら,小学5年生以来,その好きな景色を表現する手法を失ってしまったのだ.

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それから何年も経って,僕は一眼レフをようやく手に取った.
これを使って撮る美しい景色は,僕の景色へのフェチズムとそれの切り取り・描写・表現への欲求を少しでも満たしてくれるものだった.
でも,ただ撮るだけでは満足できない自分もいた.何か物足りなかった.

それからまた数年経って,今度はComputer Graphicsの世界に触れた.そこにはBRDFという美しき関数が存在した.
これを使いこなせば,世界を切り取ることも・世界を映し出すことも可能になるのである.

先日,落合さんとミーティングをしていた時に,とある教授の話になった.
その教授というのは,Shree K. Nayar.コロンビア大学のComputer Vision系のラボの教授だ.

落合さんはこのNayarと会った時に話したことを覚えていた.

「Nayarがさぁ,『私はオブジェクトを見る時に,数理的な形状とどう見えるかの見えの2つのことを考えて見るんだ』とか言ってたんだよねー」

業績もない自分をNayar氏と同列に扱うことなど全くできないが,その言わんとしていることが僕には少しだけわかる気がする.

その上で,僕はきっと自分の脳の奥底にある理想状態のもの/見えを作り上げたいんだと思う.

そしてこれがきっと,僕の「見る」という根源的行為へのこだわりと,その始まりなんだと思う.




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