アーティスト/職人の消滅と不死性




最近,頭がおかしくなってきている気がした.
理由は単純で,考えていることを吐露する場所がなかったせいだと思う.

じゃあ最近何を考えているかって.

こんな感じである.

しかしながら,こんな感じになったのにもきっかけくらいはちゃんとある.

1つはFTMAのサーベイのせいだろう.

こんな感じで今期のFTMAの授業でサーベイをしていたわけだが,全くもってComputer Scienceを専攻している人間とは思えない内容となってしまった.
「マテリアルと光に対するコンピュテーショナルなアプローチ」がメインテーマだと思っている自分に対し,マテリアル関係でサーベイをしようと決めた結果がこれである.

構造色はかなりケミカルな話が多かったが,レーザー加工の話は意外にも遠くの分野のお話ではない.
ラボのボスはフェムト秒レーザーでSIGGRAPHに論文を通しているし,実際にラボにフェムト秒レーザーは存在する.
そういう意味で,もはやサーベイは実践的と言っても過言ではなかった.

2つ目は,そのフェムト秒レーザー及びレーザーというものそのものであろう.
「フェムト秒レーザーを使うのに,そもそもレーザー自体を知らずして…」というのもあり,自学自習で勉強していた.

とても参考になったのはjstscienceチャンネルのこれだが,どこか別のサイトで勉強してから2回目を見るのがもっとも良い.
なぜ励起させるためにパルス発光させてるのか,そしてそれがなぜ問題ないのかわかるだろう.

結局,レーザーのことを調べて気づくのは,分子と原子と電子の話なのだということである.
原理を調べれば当然のことで,物理屋さんにとってみればそんなことは基礎中の基礎であるだろうが,中高生の時にろくに物理・化学を勉強せず,ラボに来てから独学メインで学んでいる僕にとってはごく新鮮な感覚なわけである.

“世界はここから成り立っている”

そういう感覚で世界と対峙する機会が増えることとなってしまった.

3つ目は,FTMAの授業最終回の時の落合さんとの質疑応答の時間である.
ここでやっと,この記事のタイトルの話が出てくる(遅くなって申し訳ない).

授業の時,僕は落合さんに聞きたかったことがいくつかあった.
その原因になったのは,実はfacebookでの武田双雲氏のとある1ポストと,彼らが鼎談している動画である.

武田双雲氏はポスト中で,「原子レベルで世界を感じる」という話をあげている.
こう言った感覚は,おそらく職人や芸術家に珍しいものではないと想像でき,それはおそらく自分の中の脳内モデルと世界とをニューロンの発火レベルでの認知だけで処理するような,世界との肉体的な対峙であると思う.

このことについて,落合さんはどう思っているのか純粋に聞きたかった.
そして聞いてみた結果の話を,書き起こしという形で記してみよう.

(質問は省略)
落合さん:
あぁ,武田さんとこの前朝飯一緒に食ってて.「炭の気持ちになって,毛の一本一本から分子が感じ取れる」って言ってたよ.「ほんとかよっ」って思ったんだけど,でもねぇ,「炭の調子がわかるんだよ」って言ってて.
でも確かにそれは俺,なんかねぇ,あのー,割とレンズとかイヤホンとか.光とか音が出てくるモノの気持ちがわかるんすよ.
「LED,君はちと疲れてきたねぇ」みたいな.プロジェクターとか見てるとね.で,そういうのは確かにあって.あれをどれだけ高精細に見るかっていうのはあるのと,あと一回どんだけ抽象化するかだと思うんだよねぇ.

ちなみに…(大阪芸大でのアート作品の話.省略)

…感覚器の調整ができてるかできてないかが,やっぱりなんだろうなぁ.世界と対峙する上では重要なんだけど.
でもそういうアーティスト性が重要な時代っていうのは,多分あと数十年ぐらいだと思っていて.
なんか,人間が持ってるそのすっげぇ精細な感覚を研ぎ澄ますことによって得られるタイプの閃きっていうのが,どんだけ必要かなんだよねぇ.
多分,もうちょっとするとコンピューターの方がその辺の性能が良くなる気がしてて.人間っていう不思議な生き物の持ってる感覚器の調整にうまく合わせていく必要があんまないんじゃないかなぁ,とは思う.
そんな気しない?
だってさ,武田双雲が分子レベルだーって言ったらさ,アルプスのセンサーかロボットアームがさ,5年後ぐらいにさ「分子レベルまでわかる筆!ディープニューラルネットワークを使って〜」みたいなのありえるよねぇ,と思うとどうなんだろう,とは思うかなぁ.
ただまぁ,そこは気持ちいいっすよね.

この話,僕としては結構驚きがあって.数十年後には人間の超高精細な感覚によるモノとかが無くなるのを前提にしてたのか,と.
『魔法の世紀』や『デジタルネイチャー』だけを読んでいたら,当たり前だろ,みたいなことを思うかもしれないけど,落合さんを普段ある程度間近に見ていると,その衰退に対するありのままの佇まいというのは意外に感じるものだったのだ.
普段どれだけ煙を燻らせ,シャッターを切っているか.最近の様子を見ている人間としては,落合さん自身,価値が減衰すると思っている行為を充実させているように見えるわけである.

ただまぁ,それはある意味時代性というものの写し絵というか,それを承知でやっているのかな,とも思うわけだけども.

しかしながら,ここで単純にアーティストや職人は死んで消えてしまうのか,といった疑念を投げかけて終わってしまうのは,早計のように感じられる.

我々が感じるアーティスティックな面とかには,いつも「普遍的表現としてのコード」が埋め込まれているわけである.
そして,それは時代とセットになって価値をもたげているものなはずである.

数十年後,人間の超感覚的な認知と世界との一体化と,そこからのアウトプットが技術で凌駕できるようになった時を迎えても,その技術とそこに対峙する人間をどう捉えるか.
どう捉えてどう形作るか.そこを考え,感じ,体現し,生きる人間は必ずいるような気がする.
(あくまでも人間社会が存在すれば,の話だが)

そういう意味で,円環的な意味での消滅と,存在としての不死性を併せ持つんじゃないかな,というところで表題に還すこととする.

さらば,世界.そして共に明日を生きよう.




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