人間の摂理について思う 〜生命の収束〜




人は死ぬ.
生き物は死ぬ.
植物も死ぬ.

何もかも,すべからく死ぬのである.

死ぬという言葉が誤解を招くのであれば,言い換える必要がある.

活動が止まる.動的だった活動が静的なものに,0に,無に収束する.

これはシンプルなアルゴリズムの帰結を集合として見た話だと僕は思う.

きっと人工生命に関する説明を最近受けたからだと思う.

例えば人間が「ガン」というもので亡くなる時,それは何かの因果律の中の話だと思うだろうか.
今の僕はそうは思わない.単純に,シンプルに,細胞のアルゴリズムの収束結果だと思う.
それが生命活動の根本に関わるところであれば,即死もありうるし,そうでないも然りである.

それは随分と確率的な話であるし,記号的・離散的な話である.
連続的に,因果的に話している内容ではない.

これは生命の誕生についてもまた然りと考える.
精子にしても卵子にしても,それは人間からの分離である.分裂である.クローンである.
科学的な知見が不足しているから,これは憶測でものを語るが,結局はシンプルなアルゴリズムから生まれる動的活動のコピーだと思う.

どっかで人間の誕生も,大元を辿れば微生物的なところに行き着く,という話があったと思う.
結局はそうなのである.シンプルな活動が連鎖する.それがどういう帰着に至るのか,それは本当に確率的な話で,環境変数が,規模が大きい実世界の中で要件が絡まり合いすぎただけとも言えるだろう.

そういう意味で,原子的な意味で,死は無意味だし,しかしどうして抽象的には,メタ的には意味があるのである.
意味を作れるのである.見出せるのである.

宗教的な話をする気は一切ない.神道の話に通じさせる気もない.
ただ,思うに,結局のところ世界と一体なのであろう.抽象であっても,具体であっても.

だから,踊る人類がいるのではないか,と思ったりすることもある.
世界と一体化したいのか,世界に溶け込みたいのか,世界を取り込みたいのか.
活動原理が,体の動かし方の原理が,そういう時はきっと根本的に違う.
考えることも必要だが,考える必要もない.ニューロンで済む話である.

恩師のとある話が僕は好きだ.
それは恩師が相棒と共に哲学者・フーコーに会った話である.それも会いに行ったのではない.向こうに呼ばれて.
その時代,結局哲学者が求めたのは身体性だったという.結局は.

それを知らずに,いや聞いていた記憶はあるが,それを忘れて僕は恩師にとある話をしたことがある.
同世代のとあるボーカルの話だ.
上手い・下手とか技術とか本人の自己認識は一切脇に置く.
その上で僕が感じていたのは,そいつが肉体を持ってもたらす言葉に歌に価値があったと.

死に関して僕が話をしたことがある人間はそう多くはないと思う.いや本当に.
だから,特に話をしたことがある人にはこれが届いて欲しいとやや思うところがある.
いや,結局はそれも一人に収束する話である.

死について,それほど多くはないが話に出したことがある.
その時の僕の回答は,メタレイヤーの話としては浅く,しかし具体の話も一切なく,不十分なものだったと思う.
しかし,僕が聞いた話も全然に十分ではなかった.結局は何を感じて結論に至っているのか知る由もなかった.

それに対する答え,というわけでもない.が,これはまた1つのアップデート版であるし,その側面のやや大きめな説明である.

また,最後に.
結局のところ無意味だ,と語った上で,だからこそ抽象の世界でがんじがらめにあって,身体には出ている情報に無関心になって,自己という抽象だけを抽象世界に取り残してしまう人類にはなって欲しくないのである.
人間を観る目は養っている途中ではあるが,それでもそれなりのモノになってきていると思う節はある.
そして,そういう自負が多少でもある中で,身体としては,それは脳をも一旦身体と考える中で,生じているはずの信号にあえて無頓着なのか,無意識に無頓着なのか.とにかくそういう人をどうにかしたいと思ってしまうのだ.

そう原子的に見れば,結局のところ世界は同一である.だからこそ,無意味なのである.
しかし,そうであればこそ,抽象が具体を閉じ込める義理も,権限もないのである.
我々は生命としてある限り,それらを直列的に世界と繋ぎなおして,生きていくことが本来的だと,僕はそう思うのである.




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