デジタライズされた「死」の観念




「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」
これは土方巽の有名な言葉である.

ふとしたことから「器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ」を読んでいる(身體はカラダと読む).
その中で,土方巽が弟子たちに対して求めたのが舞踊家としての資質ではなく,「All or nothing」の心得.すなわち「すべてを舞踊に捧げるか,否か」という点であったというところに意識がとまった.

よく思うことがある.我々の住むこの日本という国の歴史を鑑みるとき,常々70年代や80年代と現在の断絶が甚だしいのだ.
あの時代の社会・芸術を見てみると,どこに向かっても「死のニオイ」が纏っているのである.
そしてそれがあるかどうかは,土方巽に関する書籍を読むに,土方巽が重視したことでもあるようなのだ.

しかして,現代に話を振ろう.
僕個人の感覚としては,特に地下鉄サリン事件を大きな断絶として「死のニオイ」は忌み嫌われるべきものとして社会から抹殺されてしまったと感じている.

あの当時,北野武と麻原彰晃が対談している動画で,北野武が「生をどうするか考えるのと同じくらい,死をどうするか考えるべきである」と語り,
アウトレイジという映画内でとにかく死を活用した事実は目に留めておくべきことだろう.

その一方,僕らのラボのボスしかり,「死」という単語が用いられたフレーズが世の中に蔓延ることがあるという現実も存在している.

しかし,どうにもここで取り扱われる「死」は,あの70年代・80年代に存在した土着的なキツイニオイのする「死」ではなくなっていると思われるのだ.
というか,70~80年代の「死のニオイ」を現在に持ち込むことは公の場でおそらく許されざるものであろう.

そこで一部の人々が世界を二分しだすこともある.つまり,あの頃の「死のニオイ」を追い求める派と追い求めない派という切り分けである.
それを追い求める人は,途上国と呼ばれる地域などで肌で感じ,持ち帰るか自己内部で熟成させるか,何かしらの方法を模索するものである.

だがしかし,だがしかし,だがしかし.
それはありふれた方法であろう.古来から存在するやり方にすぎなかろう.時流の中で停滞するのを自発的に選ぶのは勝手であるが,未来を見ようとする気概を以ってその手法を社会に人々に提供しようとするのは危険であるとも思える.

だから,ここで考えてみる必要がある.「死」から「死のニオイ」が消えたのはなぜか.
Digital Nature Groupという集団に所属するという身であることも踏まえ,デジタルネイチャー的に考えるのであれば,肉体に対する認識がより無機質的なものであるようになったからであろう.

昨今,我々はよく「Deep Learning」だとか「ニューラルネットワーク」だとかの言葉を耳にしよう.それはBiomimetic的でもあり,つまり機械による人間模倣/人間代替的である.
そしてただそれだけではなく,出力される結果の精度が昔に比べ遥かに向上していることが,人間の無機質化に拍車をかけているわけだ.

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分析はこれくらいで伝わろう.私にはもう一つ考えておきたいことがある.
ではどうやって人間の生命力を高めようか,ということである.

全くもって話が飛躍して申し訳ないが,最近Green Dayのボーカルに対する尊さを感じてやまない.
「パンク」と言えば歴史的に見れば,社会に対する反抗だとか,抑圧に対する抵抗だとか.そういった諸々の感情と実社会に対する行動が伴いうるものであった,と一般認識的には感じる.
しかし,現代においてその機能ははっきり言えば死んでいる.音楽で代弁する必要がなくなってしまったからだ.

だが,だからこそ彼らは,彼の姿勢は尊いのである.

抑圧に対する抵抗はマイノリティの支持という構図にもよくなる.
つまり,不完全と思われる側の味方でもあるのだ.不完全であっても認められるべき,ダメと思われることが許されるべき,失敗というものも存在して良いべき,なのだ.
彼らは,彼はその空気/場/コミュニティを作り,表立ってくれるキャラクターである.エンターテイメントである.
それを貫くのは,ただただ人間的に尊いとしか言いようがなかろう.

そんな音楽の中からも「死のニオイ」が消えた現代において,あの頃凶暴で強靭で,しかしながら魅力的で先導的だった人類はもう降臨しないのか,という疑問がある.
私はそういった人類は別の場所に存在していると考える.イーロンマスクしかり,ザッカーバーグしかり,ジェフベゾスしかり(若さでいえばザッカーバーグくらいかもしれないが).
アップデートされた死の観念を抱えている者達は,ポジティブベクトルに近いベクトルで圧倒的な夢想をするしかないのかもしれない.

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ここまで書いてみて,そうかと思ったことがある.
むしろ我々が機械に近づいているのではなかろうか,と.

「生死」とか「肉体」とか.そういった土着的なドロドロしたものをインターネットを通して増幅させていくことが公に認められづらい社会にならざるを得ない中,
(まあもちろん「仙人」のような概念を打ち立てて正当化する手段もあるかもしれないが,)
より一層機械に我々自身が近づいていき,「死」を無機質なものにしながら,欲望のプラスベクトルをバカになるまで目一杯引っ張り続けることで,人間としてのディストピアを個人の内側に包みこみながら,発露していくしかないのかもしれない.




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