『中世の文學』で語られる「さび」を考えて




2月の作品制作での心残りに始まり,3月の作品制作と京都旅行を経て,谷崎潤一郎『陰翳礼讃』・重森三玲『枯山水』を通った後の唐木順三『中世の文學』への帰結がここにある.

ついぞ自分の中の美学が言語として勃興したと感じることができている.

結論から言おう.『中世の文學』を読み,自分なりの言葉で表したものがこれだ.
「理想主義の自主性 / 理想体の自主 / 幻」

これは『中世の文學』で語られる「無が無を行じているところ」の言い換えである.

西行法師・鴨長明の「すき」に始まり,吉田兼好の「すさび」を経て,道元や親鸞らを背景にしながら,世阿弥の「さび」に結ぶ論展開は『中世の文學』本書に預ける.
読んだ直後の僕が,自身の言葉に昇華し,独自の解釈を加えて語ることなぞできない.言い換えをするのが関の山だ.

今日ここに書いておきたいのは,今までに感じてきた「嗚呼」との接続の断片である.

それは,イチロー選手であり羽生結弦選手であり,漆職人であり和紙職人であり,WhitesnakeのBurnカバーのブレイクシーンであり,バディー・リッチのソロ演奏のシーンであり,etc.

ある意味,ここに僕が昔から溜め込んできたログ達が物語ってくれるかもしれない,言い知れぬ感情との接続があったのだという気づきである.

ここで一点だけ語っておくは,「すき」と「さび」の良さ,「理想主義を目指す個人主観に基づく美観」と「個人を排し,無私から理想主義の自主性が横溢した結果の幻」の2つを天秤にかけることは困難を極めるということである.

僕個人の感覚で言えば,どちらにも素晴らしいものがあるからだ.

今の時代背景と照らしながら結論を結ぶには時間が必要なので,思っていることを書くと「自分にあった方法を取るべきである」というに尽きる.
どちらの手法が適するかは個人の性分にも依存するし,その個人性が認められ,同じ土俵で戦うことが認められている現代だからこそ,どちらの人もいるのが自然だと思う.
(生き残りや名を残す観点から見るなら,今の時代背景との照らし合わし・未来への投石が不可欠だろう)

本来僕のような人間はどちらかと言えば「さび」的手法を取るのが性分に合っていると思うのだが,(実はここが最近の悩むところでもあるのだが)コンピューター<計算機>を使った作品制作との相性の悪さを克服する方法を見つけられていないという問題がある.

Personal ComputerのUser Interfaceレイヤーで考えれば「期待する処理が期待通り実行される」ことが当たり前かつ本当に重要とされ,繰り返しの中に発生するノイズは限りなく低くされている.

このノイズ比を上げようとするのは,その意識自体が「さび」の持つ美学と相反することは想像に難くない.

しかし,従来の「手」技に立ち返るのでは新たな地平への挑戦ともなり難い上,過去からのしがらみ・比較などの別の困難が待っていよう.

この問題を克服する方法を模索しながら日々の創作活動をより一層深化させていけたらと思う.




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